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歴史的なコナモンスイーツ、長命寺の桜もち
桜もちの由来は、当店の創業者山本新六が享保二年(一七一七年、大岡越前守忠相が町奉行になった年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜もちというものを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めたとうことで、これが花見の始まりともいわれています。
いただいてみると、利休のフノヤキに通じる小麦粉のもっちふんわり食感。
そこに漉し餡をころんとのせて、二つ折りにし、伊豆松崎産の手のひらほど大きい立派な桜の葉が3枚も添えられています。
お店によれば、香りづけだけなので、召し上がらなくても・・と。
葉は、天ぷらにしたらおいしそうです。
お煎茶付きで300円。桜の季節にはさぞかし感激でしょう。
以下、ウィキペディアからの引用です。
「長命寺の桜もち」は享保二年(1717年)に、元々は寺の門番であった山本新六が門前で山本屋を創業して売り出したのが始まりとされる[7]。隅田川の桜の落ち葉を醤油樽で塩漬けにし、餅に巻いたとされる[8]。もとは墓参の人をもてなした手製の菓子であったといわれ、桜餅の葉は落ち葉掃除で出た桜の葉を用いることを思い至ったからだという。はじめは桜の葉のしょうゆ漬けだったともいわれる。山本新六は下総国銚子の人で元禄四年(1691年)から長命寺の門番をしていた。将軍吉宗の台命により享保二年(1717年)同じ年に側傍の隅田川沿いに北から南へ桜木の植栽が行われ、これを機に花見時に賑わい発展した。記録に、文政のころ(1818-1830年)の桜餅屋のことが上がっている。曲亭馬琴他編の『兎園小説』の中で屋代弘賢が書いている内容から、盛況ぶりがうかがえる。
去年甲申一年の仕込高、桜葉漬込卅壱樽、但し一樽に凡そ二万五千枚程入、葉数〆七拾七万五千枚なり、但し餅一に葉弐枚宛なり、此餅数〆卅八万七千五百、一つの価四文宛、此代〆壱千五百五拾貫文なり、金に直して二百廿ヒ両壱分弐朱と四百五拾文、但六貫八百文の相場、此内五拾両砂糖代を引き、年中平均して一日の売高四貫三百五文三分宛なり
—屋代弘賢、兎園小説(文政八年、1825年)
桜餅一つの売値四文は現在の価値に直すと、推定で米の価格から換算した場合は約63円、大工の賃金から換算した場合は約322円[9][10]。喜多村信節著文政十三年(1830年)自序の『嬉遊笑覧』には内容を変えて作られていることが記される。
近年隅田川長命寺の内にて櫻の葉を貯へ置て櫻餅とて柏餅のやうに葛粉にて作るはしめハ粳米にて製りしがやがてかくかへたり
—『嬉遊笑覧巻十上 飲食』(文政十三年、1830年)[11]