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クリスマスと日本人

クリスチャンが数パーセントしかいない日本で、なぜクリスマス行事が定着したのか。

私の小さいころ、クリスマスケーキが定番化したが、当時はバタークリームのケーキだった。

いまは、生クリームが当然で、のってる苺も糖度が高くおいしい。

有名店のケーキは予約の受け取りで行列ができるほど、何百個も出る。

チキンやいろんな食アイテムがあるなかで、ケーキ熱は意外に高まってるような気がする。

クリスマスと日本人については、師匠の多田道太郎もコラムで書いていたが、最近のものでは以下のコラムが面白いので引用する。

「日本人」との特異な関係の「真実」

2017年11月21日

Texts by サンデー毎日

 年の瀬が近づき、街はクリスマス・ムードに包まれつつある。日本人にとってクリスマスは一大イベントに違いない。が、それが“国産”でないのは誰もが知るところ。日本人にとってクリスマスとは何なのか? コラムニストの堀井憲一郎氏が調べ尽くした。

 日本のクリスマスはいつから始まったのか。

 キリスト教徒の行事としてのクリスマスならわかりやすい。イゴヨク広まると私は覚えた1549年、フランシスコ・ザビエルらが日本に来た年の暮れから始まっている。はずである。

 ザビエルらが鹿児島にたどり着いたのは1549年の8月のことである。そのまま越年したようだから、1549年の(彼らの暦での)12月25日は、鹿児島で降誕祭(クリスマス)を祝っていたとおもわれる。

 翌年はおそらく長崎で、その次の1551年はたぶん山口で、それぞれ降誕祭を祝っていたはずである。ただし記録が残っていない。のちにはこまめにイエズス会のアジア本部に報告していた彼らも、着任直後はほとんど書簡を送っていないのだ。

 やっと1552年の降誕祭になって、山口からの書簡記録が残っている。イエズス会士たちは山口で日本人信徒たちと降誕祭を過ごした様子が報告されている。それが「記録に残っている日本最初のクリスマス」である。ただどう考えても、それが日本最初の降誕祭とは言えないだろう。彼らが過去3年、降誕祭を祝ってなかったわけがない。

 その後、各地で信者たちによる敬虔(けいけん)なクリスマス祝祭が開かれていた。それはキリスト教徒のいた各地で行われている(九州、山口、畿内など)。

 しかし、そのあとわが国はキリスト教を徹底排除した。秀吉の伴天連(ばてれん)追放令以降(1587年)、おおっぴらには日本での降誕祭は開かれない。

 閉鎖的で平穏な300年近くが過ぎ、19世紀になってわが国はキリスト教国列強によって暴力的に開国させられた。

 開国したからといって、日本人のキリスト教信仰が許されたわけではない。明治維新後も、キリスト教は厳しく禁止されたままであった。

 明治政府がいつ日本人のキリスト教信仰を許したか、それを調べてみると、明確な許しは遂に出されなかった、と言うしかない。明治憲法の信教の自由についても但(ただ)し書きがついており、「安寧秩序を妨げたり、臣民としての義務に背く」信教は禁止されている。キリスト教を始めとするいくつかの異教の信仰は、憲法においても制限されていた、と見たほうがいい。キリスト教信仰はできるかぎり制限したいと明治政府は考えていたのだ。

 秀吉のキリスト教徒追放令や鎖国政策、明治政府のキリスト教禁止などについて、自分と関係のない歴史の出来事としてぼんやり見ている感覚が強いとおもうが、つまりいまはキリスト教を禁止するなんて野蛮なことはしていないから現在のわれわれと関係ない出来事として眺めてるようにおもうが、クリスマスの歴史を調べておもうに、この影響は強く現代にも残っているとおもう。

明治期から楽しんでいた…

 例えば、日本人はキリスト教信者と自分を比べて“私は無宗教だけど”という断りの文言を言うことがあるが、あれなどはその影響のひとつだろう。これは「私は一神教徒ではない」ということを遠慮がちに言ってるだけだからだ。初詣に行ったり、身内の墓参りに行く人が無宗教なわけがなく、一神教のような強い宗教を拒んでいるだけなのに、それを無宗教と言ってしまうのは、ある決心の表明のように私には見える。

 いまの日本人の多くは、キリスト教に対して悪いイメージは抱いていないだろうけれど、でもまたその内容についてはほとんど何も関知していない。でも知らないふりもどうかとおもうので、目立ってとっつきやすいクリスマスだけは受け入れている、そういうふうに考えられる。

 明治になって、先進文化の一部として、キリスト教を学ぶ人たちが増えていった。また敗者である幕臣にキリスト教に入信したインテリがいた。そういうインテリ層を中心として、海外先進文化の一つとして、明治初年のクリスマスは祝われていた。

 明治半ばごろの新聞では、12月25日前後に、横浜の外国人居留地では今年も降誕祭が祝われた、と毎年小さく報道されている。浅草の歳の市や、愛宕(あたご)の歳の市の様子などと並べてレポートされている。あくまで、異教徒の祭りとして、国内で行われている珍しいイベントとして紹介されているばかりである。自分たちの祭りではなかった。

 それが一転、変わるのは1906年からだ。

 明治時代の新聞を毎年丁寧に見ていくと、わかりやすい変わり目は、1906年にある。広告が派手になり、サンタクロースの絵が目立つように出てくる。クリスマスに贈り物をしようという宣伝が派手になっていく。日本人が積極的にクリスマスを楽しみ始めている。それが1906年、明治で言えば39年からである。

 理由はわかりやすい。大国ロシアに戦争で勝ったからだ。

 それまで、不平等条約に苦しみ、列強によって領土を奪われるのではないかという国際的な恐怖と緊張の中にいた日本国は、ロシアの東アジア進出を食い止めたことにより、少し安心できたのだろう。

 西洋列強に対する恐怖が薄れ、西洋コンプレックスが軽減されたため、それまでは「西洋人のものであって自分たちは関係ない」とおもっていたキリスト教祝祭のクリスマスをも、自分たちもやってみよう、という気分になったのだとおもわれる。

 一神教の神を、勝手に八百万(やおよろず)の神の一柱に入れてしまった。

 1906年以降、クリスマスは日本人も楽しむ日となった(日露戦争が終わったのは1905年の秋であるが、直後に講和条約に不満を持った人たちが東京市中のそこかしこに火を放ち、騒乱状態を引き起こしたため、東京市には戒厳令が11月末まで敷かれ、社会は不穏な状態であった。1905年のクリスマスは騒げる気分ではなかった。落ち着いた翌1906年より、クリスマスが定着した)。

 1906年以降の日本人なら(日本で育った人なら)何らかのクリスマスの思い出があるはずだ。「キリスト教と関係なく楽しむ日本のクリスマス」はすでに110年以上の歴史がある。

 1910(明治43)年には、帝国ホテルでクリスマスお楽しみ会が開かれている。そこでの出し物は、寄席演芸や浄瑠璃の演目である。ベツレヘムも3人の博士もイエス様もまったく出てこない。桂川で心中したお半と長右衛門の芝居や太神楽(だいかぐら)が披露されている。まったくキリスト教と関係ないお楽しみ会である。キリスト降誕と関係のない日本のクリスマスは、明治末年にしっかりと根付いていたのだ。

満州事変下でもイブには大騒ぎ

 大正年間を通して、クリスマス騒ぎはどんどん派手になっていく。銀座では12月初旬にはクリスマスのデコレーションが始まり、クリスマスプレゼントには何がいいのか、クリスマスにはどういう食事を用意すればいいのかなど、現在とさほど変わりないクリスマス特集記事が12月の新聞に載る。

 1926年の12月25日に大正天皇が崩御され、昭和の時代に入ると、クリスマスはよりいっそう狂騒的な様相を呈してくる。

 明治国家は、国家システムの中心に天皇を置いていたため「先帝祭」(先の帝のなくなった日)は祭日となっていた。明治時代は孝明天皇祭1月30日、大正時代は明治天皇祭7月30日が休みであった。わかりやすくいうなら、国の法事で国が休み、ということである。そして昭和時代は(占領軍にシステムを変更させられる1947年までは)12月25日が先帝祭(大正天皇祭)として休みとなった。昭和2年以降、日本ではクリスマスが毎年休日で、クリスマスイブは休前日の夜だったのである。

 これに当時の世相が反応して、例のないクリスマス騒ぎが展開される。

 それまでは子供のためのクリスマスという傾向が強かったが、昭和になってからは、モダンボーイ・モダンガールを先頭として、大人のための遊興の日として、クリスマスに騒ぐようになった。

 当時流行のカフェー(女給さんがいて酒も出す店)やバー、キャバレーでクリスマス前夜に騒ぐのが流行(はや)った。ダンスホールとジャズの時代でもあったので、みんな踊ってクリスマスを過ごしていた。

 その騒ぎが年々加速していく。

 なかでも1930(昭和5)年から1936(昭和11)年までのクリスマスが、狂騒的である。満州事変が起ころうが、国際連盟から脱退しようが、二・二六事件が起ころうが、変わらない。そういう社会的な不安のなかにあったからこそ、だからクリスマスイブには大騒ぎをしていたように見える。

 いまは完全に忘れ去られているし、政治の流れだけを追っていると気がつかないが、昭和初年の世相としては、少なくとも東京ではひたすら踊ってクリスマスを大騒ぎして過ごしていたのだ。

 一変するのは1937年、当時の呼称での支那事変が起こってからである(当時の政府が、これを戦争と呼ばずに事変と呼んだことが、このあとのいろんな事態の悪化を招いたわけであるから、当時のリアルな空気を伝えるためにも当時の呼称は引き続き残しておくべきだとおもう)。この、中国との全面戦争により、クリスマス騒ぎは禁止された。戦時体制となり禁じられたのだ。浮かれた遊興の禁止である。べつだんアメリカ・イギリスの習慣だから禁じられたわけではない。そもそも同盟国のイタリアやドイツの習慣でもあるのだから、それが禁じる理由にはならない。そのまま世界戦争へ突入し、クリスマスは見向きもされなくなる。

 敗戦3年後1948年から、またクリスマス騒ぎが再開される。

 それは1936年までと同じ、ダンスホール、キャバレーでジャズミュージックで騒ぐクリスマスであり、大人のクリスマスであった。戦前のクリスマスと戦後直後のクリスマスは、ほとんど同じ騒ぎである。クリスマスを通して見る限り、戦前と戦後の文化にさほどの切れ目は感じられない。ただ戦前に比べ、戦後のクリスマス騒ぎのほうが、よりいっそう破壊的である。イブの銀座は大変な騒ぎになっている。その騒ぎは1957年まで続く。

 1958年以降、歓楽街での狂騒的な騒ぎはおさまるが、しかしクリスマスイブに銀座に大変な人が出てくる、という状況は変わらない。銀座半日の人出が90万人もあった。それは1963年まで続いた。

 戦後1948年から1963年まで、「大人のクリスマス」として銀座、新宿などの歓楽街を中心に破壊的で、狂奔的なクリスマスが展開されていた。

 1964年以降、それが鎮まっていく。パパたちはケーキとプレゼントを手に郊外の家に帰っていくのがクリスマス風景となった。高度成長期の後半である。高度成長によって社会が豊かになってくると、男たちは歓楽街で騒ぐのをやめて、マイホームへと帰っていったのである。貧乏だったり、社会的不安が強いときのほうが、クリスマスは歓楽街で騒がれがちなのだ。

 それ以降、しばらくクリスマスは子供たちのお楽しみの日として、のどかに過ごされていた。明治時代と同じである。

理由なく「恋人たちの日」に

 ところが1980年代に入り、女性側からの奇妙な動きが始まった。

 クリスマスを恋人たちの日にしようという動きが加速していくのである。

 雑誌のクリスマス記事をもとに見ると、女性が強く「クリスマスイブを恋人たちの日にしたい」と宣言したのが1983年、しばらくスルーしていた男性側が、それを受け入れざるをえなくなったのが(男性誌が全力でクリスマスデートマニュアルを展開し始めるのが)1987年である。

 1987年が男と女のクリスマスが始まった年だと言える。今年2017年で30年、こんなことを30年もやっているのだ。30年前の狂奔好景気のころほど破壊的消費はしなくなったが(一晩に10万円近くも遣うこともなくなったが)そのまま、いまだにクリスマスイブは恋人たちの日として認識されている。

 日本の大人はほとんどキリスト教やその信仰内容について、申し訳ないけど(忙しいんで)ほとんど興味を抱いておらず、ゆえにクリスマスそのものの本義についてもまったく関心を持っていない。クリスマスの歴史を調べていると、つくづくそう感じる。だからこそクリスマス祭りに参加するのだろう。「キリスト教徒でない日本人がクリスマスに騒ぐ」というのは、日本の一種の伝統と化しており、見方によっては日本の文化を守るための行動だとも言える。これからもどんどん派手に楽しく過ごせばいいと、私はおもう。

(コラムニスト・堀井憲一郎)

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